アトランタの歴史
市の創設と初期
現在アトランタという都市が存在しているこの地には、古くはスタンディング・ピーチツリーと呼ばれる、ネイティブ・アメリカンの村があった。1822年、チェロキー族とクリークス族がヨーロッパ人入植者に土地を割譲し、この地にディケーター(Decatur)という名の入植地が建設された。その後まもなく、非公式の取引所がヨーロッパ人の入植地へと発展し、スラッシャービル(Thrashersville)と名付けられた。
1836年12月21日、ジョージア州議会は、この地と中西部との通商ルートを提供するため、アパラチア山脈を越えてテネシー州チャタヌーガへと通ずるウェスタン・アンド・アトランティック鉄道の建設案を可決した。一方、この一帯に住み着いていたチェロキー族は、1830年に成立したインディアン移住法の結果、強制移住によって土地を追われた。ネイティブ・アメリカンの去った土地には、鉄道を敷く余地が残された。1842年、マーサズビル(Marthasville)と名を変えたこの町には6棟の建物が建ち、30人の住民が住んでいた。その後も幾度か町名が変わった後、ジョージア鉄道の主任技術者エドガー・J・トムソンは、この地をアトランティカ・パシフィカ(Atlantica-Pacifica)という名に変えることを提案した。この名はすぐに「アトランタ」に縮められた。住民はこの名に賛同し、1847年12月29日、町はアトランタという名で正式な町になった。1854年には、アトランタとジョージア州西部、アラバマ州との州境近くの町ラグランデとを結ぶ鉄道が開通した。1860年には、町の人口は9,554人へと増えた。
南北戦争と再建
南北戦争時には、アトランタは鉄道交通・軍需品供給の中心地として重要な地であった。1864年5月、テネシーから州境を越えた北軍は、勝利を重ねながらアトランタを目指して南へと軍を進めた。ピーチツリークリークの戦い、アトランタの戦い、エズラ教会の戦いなど、アトランタ方面作戦と呼ばれるこれら一連の戦いにおいて、アトランタとその周辺、特に北側の地域は激しい戦闘の繰り広げられる戦場と化した。1864年9月1日、南軍将軍ジョン・ベル・フッドはアトランタから逃れ、ついにアトランタは陥落した。逃亡にあたって、フッドは全ての公共の建物、および南軍の資産を破壊するように命じた。翌9月2日、市長ジェームズ・カルホーンは市を明け渡した。9月7日には、北軍将軍ウィリアム・シャーマンは民間人に対し市外への避難命令を出した。次いで11月11日には、シャーマンはさらに南への進軍にあたって、教会と病院を除いて、アトランタの町を全て焼き払うように命じた。
南北戦争が終わると、やがて市の再建が始まった。1867年から1888年にかけては、レコンストラクションを確実なものにするため、アメリカ合衆国陸軍がアトランタの南西に立地するマクファーソン兵舎を占拠した。奴隷の身分から解放され、自由の身となったアフリカ系アメリカ人の助けとなるため、解放黒人局はアメリカ伝道師教会(American Missionary Association、AMA)をはじめとする解放黒人支援団体と協力体制を築いた。AMAは1866年、ストアーズ・スクールおよびサマー・ヒル・スクールという、アフリカ系の生徒のための学校を2校設立した。これらの学校は1872年にアトランタ公立学区に組み入れられた。また、AMAはアフリカ系教師養成の一環として、1865年にアトランタ大学(現在のクラーク・アトランタ大学)も設立した。アトランタ大学はHistorically Black Collegeと呼ばれる、アフリカ系市民に高等教育の機会を与えるために設立された大学としては、アトランタで初めて設立されたもののうちの1校である。ウォッシュバーン孤児院を設立したのもAMAであった。アトランタ第一会衆派教会(The First Congregational Church of Atlanta)は、北部の白人、AMA、アトランタの解放黒人の協働によって生まれた。
一方、南北戦争後のアトランタの経済的な再建に寄与したのは綿花産業であった。1838年までは、この一帯では綿花は主要産品ではなかった。しかし、1870年代半ば頃までには、綿花はアトランタ地域経済において鍵となる農産品としての地位を得ていた。1870年代には、アトランタは綿花積出の内陸港湾としては、アメリカ合衆国南東部で4番目に大きい河港を有していた。1881年10月5日には、アトランタで国際綿花博覧会が開かれた。この博覧会には33の州とアメリカ合衆国外の6つの国から1,013点の展示品が集まった。かつての北軍将軍、ウィリアム・シャーマンもこの博覧会を訪れ、17年ぶりに目にしたアトランタの再建に感銘を受けた。
1868年には州都がミレッジビルからアトランタに移された。アトランタはジョージア州の歴史において、サバンナ、オーガスタ、ルイビル、ミレッジビルに次ぐ5番目の州都である。アトランタが州都に選定された背景には、南北戦争後のアトランタの復興と鉄道の便のよさが評価されたことに加えて、「もしもアトランタが州都に選定された場合、州会議事堂をはじめとする州の各種機関のための建物を10年間無償で提供する」とアトランタ市当局が州政府に働きかけたこともあった。1880年代に入ると、アトランタ・コンスティテューション(現アトランタ・ジャーナル=コンスティテューション)紙の編集者ヘンリー・グレイディーは、農業への依存度を減らし、近代化した経済に根ざした「新南部」(ニュー・サウス、New South)を提唱した。その実現の一環として、1885年には高度な職業訓練・工業技術訓練を主目的とする学校としてジョージア工科大学を設立した。またこの頃、南北戦争後のアトランタで初となる病院、アトランタ病院(現セント・ジョセフス病院)が設立された。
20世紀
こうしてアトランタは南北戦争から立ち直り、州の政治の中心としても、経済の中心としても発展を遂げていった。しかし、奴隷制が無くなっても人種間の緊張が無くなることはなく、むしろ高まっていった。1906年に起こったアトランタ人種暴動では、少なくとも27人の死者、70人の負傷者を出した。1913年には反ユダヤ主義を背景とした冤罪事件(レオ・フランク事件)もこの地で起きている。
1939年12月15日、「風と共に去りぬ」のプレミア公演がアトランタのロウズ・グランド・シアター(Loew's Grand Theatre)で行われた。この映画はアトランタ出身の作家マーガレット・ミッチェルの小説を基にしたものであった。プレミアにはクラーク・ゲーブル、ヴィヴィアン・リー、オリヴィア・デ・ハヴィランドらも訪れた。
第二次世界大戦中には、郊外のマリエッタにあったベル・エアクラフトの工場など製造業、特に軍需産業が発展し、市の人口と経済の発展に大きく寄与した。第二次世界大戦が終わった翌年、1946年には、疾病予防管理センター(Centers for Disease Control and Prevention、CDC)が設立された。
1954年、連邦最高裁判所がブラウン対教育委員会裁判において、公立学校における人種分離はアメリカ合衆国憲法修正第14条に反するとした判決を下すと、アトランタでも人種差別撤廃への機運が高まっていった。アトランタにおける人種間の緊張はより暴力的手段に訴えるものに変わっていった。1958年10月12日、ピーチツリー・ストリート沿いに建つユダヤ教の寺院が爆破されるという事件が起こった。このシナゴーグのラビであったジェイコブ・ロスチャイルドは人種統合の擁護者であった。この事件は、自らを「南部連合の地下組織」と呼ぶ反セム派の白人たちによるものであるとされた。
1960年代に入ると、アトランタは公民権運動の中心地の1つになった。アトランタにおける公民権運動では、マーティン・ルーサー・キング牧師に加えて、地元のアフリカ系の学生たちがリーダー的な役割を果たした。公民権運動において最も重要な役割を果たした団体のうち、南部キリスト教指導者会議 (Southern Christian Leadership Conference) と学生非暴力協力委員会(Student Nonviolent Coordinating Committee)の2つはアトランタに本部を置いていた。しかし、公民権運動の最中における数々のプロテストにも関わらず、アトランタの政治・経済のリーダーは「憎む間も無いほど忙しい都市」というイメージを作り上げていた。1961年、市長アイバン・アレン・ジュニアは、その当時の南部の白人市長としては珍しく、公立学校における差別撤廃を擁護する側に立っていた。
1973年には、南部の主要都市では初となる、アフリカ系の市長がアトランタで誕生した。20世紀後半においては、アフリカ系の住民はアトランタの人口構成における多数派となった。しかしその後、郊外化、物価の高騰、地域経済の発展によって新たな住民が流入し、アトランタの総人口のうちアフリカ系が占める率は1990年に66.8%に達したのをピークに減少し、2000年代中盤では50%台に落ち込んでいる。また、新たにアトランタに流入してきた住民の中にはラテン系やアジア系もおり、アトランタにおける人種構成は多様性を増してきている。
1990年、アトランタは1996年夏季オリンピックの開催地に選定された。アトランタはセントルイス(1904年)、ロサンゼルス(1932年・1984年)に続いて、アメリカ合衆国の都市としては3番目となる夏季オリンピック開催都市であった。オリンピック開催の告知に続いて、アトランタでは市の公園、スポーツ施設、および交通網の整備など、大規模な建設プロジェクトが進んだ。しかし市がオリンピックに沸く一方で、9,000人ものホームレスが不当に逮捕されたり、オリンピック関連施設の建設用地確保のためにスラムが取り壊されたりと、貧困層はしわ寄せを受けた形となった。会期中の7月27日には、センティニアル・オリンピック・パークで爆破事件が起こった。